人には感情がある。あると思う。
そして、その感情を形・色として表すならば、それは人の数の倍以上の形や色があり、どれ1つとして同じものは存在しないと私は思う。
似通っているものが在ったとしても、それらは完全に一致することはなく、もし一致が在ると言うなら、それは完全な一致ではなく類似したものの一部の一致を全てと感じてしまっているのではないかと思う。
何故なら、完全に一致するそれを私は知らない。そしてそれを確かめる術もない。

感情とは、何らかの感覚が感情として現れるものだと私は考えている。
専門家から見れば、何の知識もない私のこんな考えに腹を抱える者も居るだろうと思う。
まぁ、考えるのは勝手だし、自分がそう考えた方が分かりやすいってだけのことだし、続けよぉ〜。

そして人々はそれを言葉で表現する。
言葉によって相手の感情を知ることが可能になる。
そして私もずっとそうしてきた。

だが、最近それに疑問を感じるようになった。

感覚が感情に、感情が言葉に、その過程の中で本当は多くのことが失われているのではないのか?
感覚を感情にする際、感情を言葉にする際、それぞれ変換する際に完璧な変換が出来ていないような感じを受け、その言葉を口にすることに抵抗を感じる。
変換の際に自分の感覚が捻じ曲げられたとしたら、その言葉は自分のものであり、自分のものではなくなるからだ。
大切な感覚であればあるほど、私はその感覚をそのまま相手に伝えたい。

私のとても仲のいい(?)女の子に、よく自分をダメだしされる。その子は自分で言うのもなんだが、確実に私よりも言葉を知らない。(幼いせいもあるが)それなのに、感覚・感情・言葉が一貫しているように思う。(幼いためか?)私が喧嘩をした時はいつも仲裁に入って円満解決してくれる。それがかなり悔しいが、自分には出来ない。
そんな時私はいつも、言葉を多く知っていることが捻じ曲がった言葉による感情のすれ違いを解決するわけではないと感じる。

そして、感覚と感情と言葉を自分ですら捻じ曲げることなく表に出すことが出来ないのなら、相手もまた然り。
それなのに、相手には感情を捻じ曲げることなく表に出せと思ってしまう、その感情は捻じ曲げられていない自分の素直な感情だ。
言ってみれば我侭であり、自分が捻じ曲げずにいられないなら、相手にそれを求めないことは当然のことであるが、そうできない。
仲のいい彼女は、それを充分に分かっているみたいに感じる。
彼女は言葉よりも大切なものが感情には必要だと言う。それをみんな忘れているらしい。まぁ、みんなといっても、彼女の小さな人間関係の中の人々に限定されるのだろうが。
気付いていないものではなく、忘れていると言うことは、もともとは知っていたということだろうが、私には検討もつきませんよ。

言葉がいつしか全てになっていた。
言葉がなければ分かり合えないと思っていた。
それは間違いではないだろうが、正しいものでもないのかもしれない。
しかし、今の私にはどうしても言葉が必要で、言葉なしで対話するというのは考えられない。

彼女が言っていることは何だかとっても難しい。

頭が痛くなってきたよ。
そもそもこんなことを考えているのは感覚と感情と言葉によるいざこざがあったからなんだよねぇ………
一応和解はしたものの、納得いかないからちょっと考えようと思っただけなのに、考えすぎたよ…
あぁ疲れた。。。
今日はここらで止めておこう。

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