人と会話をすること。喋喋とまではいかなくとも。
それは他人と接する限り、避けて通るわけにはいかないもの。
コミュニケーション。
そもそも、会話と言う形でコミュニケーションをするのは、
人間が言語と言うものを手に入れたから。
そんなものが出来たのは必要であったから。
集団でなければ生活することが出来なかった自然の中の弱者が見出した手段。
同種にしか聞き取ることの出来ない言語。危険から身を守るために。
牙を捨て、素早さを捨て、武器を手にし、知能を高めた。
そんな人間は言語も様々に変形させ、発展させた。
そんな言語を使って人は人とコミュニケーションをするようになり、楽しいことや、辛いことなどを共感できるようになった。
集団で生活するためには必要だった言語。
私も人間である以上、集団で生活していかなければいけないわけだが、
集団が苦手だ。そしてコミュニケーションも苦手だ。
危険を知らせる音(言語)は私の耳に届くとき、時としてそれが危険なものであったりするからだ。
音を発している者はそんなつもりはないのだろうけれど、私の耳は、その音を脳に運ぶ過程で、若しくは脳に届いた時点で別の音に変わるといっても過言ではないほどに別の音になる。
様々に変形した言語は、単純な意味から深い意味に変わり、
多くの意味を持つようになった。
そんな言葉を私の脳は正しく理解できない。
当然、私の心情も正しい言語に変換することが出来ない。
そんなわけで、私は他人とのコミュニケーションが苦手だ。
必要最低限の会話をすることは誰とでも出来る。
しかし、それ以上となると誰とでも出来るわけではない。
偉そうに自分の中で話せる人間と話せない人間を決め、
それを決定付けるものは、私の言葉を理解できるかできないかというものによる。
理解できると思っても、理解できない場合が多い。
そうなると私はその者との会話を極力避ける。
理解されない、理解できない会話を無駄に感じる。
それはもうコミュニケーションではないと判断する。偉そうに。
世の中の大人と言われる年齢に達するまで私は平然とそれをしてきたし、
それで何の問題もなかった。実際は問題がないように感じていたようだけれど。
それでも、成長するにつれてそれだけではどうにもならないと言うことに気づき始めた。
自分を囲む社会の枠が大きくなれば大きくなるほど、私の考えは通用しなくなる。
それは私を理解する人間と理解しない人間の比率の変化だ。
そんなわけで、私は私のコミュニケーションと言うものを根本から見直さなければならなくなった。
かと言って、私の基本的な考えが変わるはずもなく、
結果として、人を避けるように、必要最低限のこと以外は口を噤むということになっている。
しかし、いつまでもそれでどうにかなるものではないことなどは承知しているが、どうにもならないのである。
簡単に言えば、私は言葉が恐くて仕方がないからだ。
人に危険を知らせるための言葉は、いつしか私が他人を危険にさらし、危険をもたらすものだと思うようになったからだ。
そしてそれは私の中で真実であり、その真実が変わることがない限り私は言葉を恐れ、他人から発せられるの時も、他人へ発する時も、常に恐怖心と共にいなければならない。
それでも、最近他人と会話することが増えてきたのは必要に迫られていたからだろうか?
違うことは気づいている。
私は麻痺してきている。自分の納得のいかぬままに時は流れ、私は逆らえずにその流れに流されている。
その流れの中で私は他人とのコミュニケーションを拒否することが出来ず、流れのままにコミュニケーションをする。
危険にさらされることも危険にすることも、その恐怖心も、薄い膜を通しているかのように他人事で。
麻痺した私は自分の意思と関係なく喋喋として。
その歪は1人になったときに訪れる。
実際に1人でないときも、私は1人になる。
その瞬間、私はコミュニケーションを取れない人間へ戻る。
必要なことも必要でないことなのかもわからなくなった私はただ何も感じられなくなるばかりで、楽しかったことも悲しかったことも何もわからなくなり、口を噤む。
其処に人がいればおかしいと思うことだろう。
だけど、それが真実で、私はおかしな人間だろう。
私はもうどれほど長いこと自分の伝えたいことを伝えないコミュニケーションをしていることでしょう。
でも、それが世の中のいうコミュニケーションなのだと思っているのです。
だから私のコミュニケーション能力は測定できないのでしょう。
それは私が誰とも会話したくなく、誰もと会話したいからなのです。
私は誰と会話していてもその言葉を処理する自分と会話しているのです。
そうすることで、危険にさらしているのは他人ではなく自分だと納得させ、他人に危険をもたらさないようにしているのです。
結局のところ、私にとってコミュニケーションは情報収集でしかないのでしょう。
自分の知りえないことを知るための手段であり、そういった意味ではもともと言葉が発生した理由とたいして違いはないのです。
この考えは現在のもので、また何時変わるか知れません。
それは他人と接する限り、避けて通るわけにはいかないもの。
コミュニケーション。
そもそも、会話と言う形でコミュニケーションをするのは、
人間が言語と言うものを手に入れたから。
そんなものが出来たのは必要であったから。
集団でなければ生活することが出来なかった自然の中の弱者が見出した手段。
同種にしか聞き取ることの出来ない言語。危険から身を守るために。
牙を捨て、素早さを捨て、武器を手にし、知能を高めた。
そんな人間は言語も様々に変形させ、発展させた。
そんな言語を使って人は人とコミュニケーションをするようになり、楽しいことや、辛いことなどを共感できるようになった。
集団で生活するためには必要だった言語。
私も人間である以上、集団で生活していかなければいけないわけだが、
集団が苦手だ。そしてコミュニケーションも苦手だ。
危険を知らせる音(言語)は私の耳に届くとき、時としてそれが危険なものであったりするからだ。
音を発している者はそんなつもりはないのだろうけれど、私の耳は、その音を脳に運ぶ過程で、若しくは脳に届いた時点で別の音に変わるといっても過言ではないほどに別の音になる。
様々に変形した言語は、単純な意味から深い意味に変わり、
多くの意味を持つようになった。
そんな言葉を私の脳は正しく理解できない。
当然、私の心情も正しい言語に変換することが出来ない。
そんなわけで、私は他人とのコミュニケーションが苦手だ。
必要最低限の会話をすることは誰とでも出来る。
しかし、それ以上となると誰とでも出来るわけではない。
偉そうに自分の中で話せる人間と話せない人間を決め、
それを決定付けるものは、私の言葉を理解できるかできないかというものによる。
理解できると思っても、理解できない場合が多い。
そうなると私はその者との会話を極力避ける。
理解されない、理解できない会話を無駄に感じる。
それはもうコミュニケーションではないと判断する。偉そうに。
世の中の大人と言われる年齢に達するまで私は平然とそれをしてきたし、
それで何の問題もなかった。実際は問題がないように感じていたようだけれど。
それでも、成長するにつれてそれだけではどうにもならないと言うことに気づき始めた。
自分を囲む社会の枠が大きくなれば大きくなるほど、私の考えは通用しなくなる。
それは私を理解する人間と理解しない人間の比率の変化だ。
そんなわけで、私は私のコミュニケーションと言うものを根本から見直さなければならなくなった。
かと言って、私の基本的な考えが変わるはずもなく、
結果として、人を避けるように、必要最低限のこと以外は口を噤むということになっている。
しかし、いつまでもそれでどうにかなるものではないことなどは承知しているが、どうにもならないのである。
簡単に言えば、私は言葉が恐くて仕方がないからだ。
人に危険を知らせるための言葉は、いつしか私が他人を危険にさらし、危険をもたらすものだと思うようになったからだ。
そしてそれは私の中で真実であり、その真実が変わることがない限り私は言葉を恐れ、他人から発せられるの時も、他人へ発する時も、常に恐怖心と共にいなければならない。
それでも、最近他人と会話することが増えてきたのは必要に迫られていたからだろうか?
違うことは気づいている。
私は麻痺してきている。自分の納得のいかぬままに時は流れ、私は逆らえずにその流れに流されている。
その流れの中で私は他人とのコミュニケーションを拒否することが出来ず、流れのままにコミュニケーションをする。
危険にさらされることも危険にすることも、その恐怖心も、薄い膜を通しているかのように他人事で。
麻痺した私は自分の意思と関係なく喋喋として。
その歪は1人になったときに訪れる。
実際に1人でないときも、私は1人になる。
その瞬間、私はコミュニケーションを取れない人間へ戻る。
必要なことも必要でないことなのかもわからなくなった私はただ何も感じられなくなるばかりで、楽しかったことも悲しかったことも何もわからなくなり、口を噤む。
其処に人がいればおかしいと思うことだろう。
だけど、それが真実で、私はおかしな人間だろう。
私はもうどれほど長いこと自分の伝えたいことを伝えないコミュニケーションをしていることでしょう。
でも、それが世の中のいうコミュニケーションなのだと思っているのです。
だから私のコミュニケーション能力は測定できないのでしょう。
それは私が誰とも会話したくなく、誰もと会話したいからなのです。
私は誰と会話していてもその言葉を処理する自分と会話しているのです。
そうすることで、危険にさらしているのは他人ではなく自分だと納得させ、他人に危険をもたらさないようにしているのです。
結局のところ、私にとってコミュニケーションは情報収集でしかないのでしょう。
自分の知りえないことを知るための手段であり、そういった意味ではもともと言葉が発生した理由とたいして違いはないのです。
この考えは現在のもので、また何時変わるか知れません。
人間が好きとか嫌いとか、それは私の場合他者に向かうものではなく、確実に自分に向かっているものである。
誰が嫌いとか好きとかそういう前に自分は自分が人間であることが堪らなく厭になるときがある。
そんなとき「人間失格」ということばは喜んで受け入れたい言葉だ。
それでも、失格になったところで自分は人間以外何者でもなく、人間として大切なものが欠けているから失格というだけの話で、喩え失格になろうと私は人間を辞められないことに何の変わりもない。
そして、道徳とか常識とかそんなものを胸を張って唱えている人間に限って、自分に対してはその基準をたいそう低くしているものだ。
そんな人間が道徳だの常識だのと馬鹿げたことをこれ見よがしにしている様が堪らない。そんな物体と同じ種であることが堪らない。同じ種の全てのものに大きな嫌悪感を抱く。
全ての人間が失格したものと感じる。
人間なんて最初から生命体の失格者だと思う。
そんな人間をもう20年以上やっている。これから後どれくらい続ければ良いのか。
常識とか道徳とか善とか悪とか。
それは誰が決めたのか。
誰も知りもしないのに、それが当たり前とか抜かしやがる。
自分の判断でしているものなら、それを他者に当たり前という表現で伝えることなど出来やしないはずだ。それをさも当然かのように当たり前というお前は神様ですか?
神様だって知っているのか怪しい。神様自体が怪しい。
だから私は私しか信じない。そして私の言動の全ては私にしか決められないのだよ。
それをどうして私を知りもしないお前が決めようと躍起になる?
無様。
これからも表向きの人間関係を続けていくであろう私も同様に無様な物体でしかない。
失格したのなら何処か遠くへ流して欲しい。
何処でもいいから。此処じゃない何処かへ。
誰が嫌いとか好きとかそういう前に自分は自分が人間であることが堪らなく厭になるときがある。
そんなとき「人間失格」ということばは喜んで受け入れたい言葉だ。
それでも、失格になったところで自分は人間以外何者でもなく、人間として大切なものが欠けているから失格というだけの話で、喩え失格になろうと私は人間を辞められないことに何の変わりもない。
そして、道徳とか常識とかそんなものを胸を張って唱えている人間に限って、自分に対してはその基準をたいそう低くしているものだ。
そんな人間が道徳だの常識だのと馬鹿げたことをこれ見よがしにしている様が堪らない。そんな物体と同じ種であることが堪らない。同じ種の全てのものに大きな嫌悪感を抱く。
全ての人間が失格したものと感じる。
人間なんて最初から生命体の失格者だと思う。
そんな人間をもう20年以上やっている。これから後どれくらい続ければ良いのか。
常識とか道徳とか善とか悪とか。
それは誰が決めたのか。
誰も知りもしないのに、それが当たり前とか抜かしやがる。
自分の判断でしているものなら、それを他者に当たり前という表現で伝えることなど出来やしないはずだ。それをさも当然かのように当たり前というお前は神様ですか?
神様だって知っているのか怪しい。神様自体が怪しい。
だから私は私しか信じない。そして私の言動の全ては私にしか決められないのだよ。
それをどうして私を知りもしないお前が決めようと躍起になる?
無様。
これからも表向きの人間関係を続けていくであろう私も同様に無様な物体でしかない。
失格したのなら何処か遠くへ流して欲しい。
何処でもいいから。此処じゃない何処かへ。
第3幕 孤独という二文字
2005年5月31日 漫談たまには真面目なことでも書いてみようか。
そうは言っても所詮私の頭では真面目にも限界があるし、
偏ったものの見方しか出来ませんから然して意味のある文とは言えますまい。
さて、前置きはその程度。そろそろ始めましょう。
生きていると色々な場面に立ち会うもの。
それは一つの事象であったり、それに伴う心模様だったりと様々。
そんな中で気になるものといえば、まぁたくさん。
その中で今回は「孤独」と言うものについて考えてみる。
そう簡単に「孤独」という言葉を使うものもいないが、
生活してみれば意外に多い言葉のような。
まぁ、私が思うに「孤独」なんてのは簡単な言葉ではないと思っているが。
それでも使う人間は何らかの根拠があって使っているに違いない。
しかし私は思う。
「孤独」というものは確かに感じるものかもしれないが、
相当な状況にならなければ感じることは出来ないのではないか。
それも勝手な話だけれど、私は孤独は周りが感じることでもあるような、そんな考えがある。
例え周りが「孤独な人」だと憐れんだところで、当人が孤独を感じていなければ、実のところ其処には孤独などというものは存在しないのではないか?と。
逆に自分は孤独だと思っていたところで、周りがそうは思っていなければ、当人は本当に孤独なのか怪しい。
それが親しい人間が当人を孤独だと思っていないのならば、さらに怪しい。
稀に孤独は恰好良いという人間がいたり、そんな人間を見て本当の孤独を知らないからそんなことが言えるのだと不快な表情を見せるものなどがいるけれど、結局どちらも孤独を知らないに違いない。
敢えて言うなら孤独な人間が自分を孤独だと言えるのか疑問だ。
「孤独」
それは結局、第三者の心情であるような気がしてならない。
最初に断っておいて良かった良かった。
最後まで読んだ者があるならば、何馬鹿を言っているのだなどと思われそうだが、偏りのある頭ですので、ご了承いただければ幸いと。
人が孤独を感じるのに必要な要素は一体何なのだろうね?
そうは言っても所詮私の頭では真面目にも限界があるし、
偏ったものの見方しか出来ませんから然して意味のある文とは言えますまい。
さて、前置きはその程度。そろそろ始めましょう。
生きていると色々な場面に立ち会うもの。
それは一つの事象であったり、それに伴う心模様だったりと様々。
そんな中で気になるものといえば、まぁたくさん。
その中で今回は「孤独」と言うものについて考えてみる。
そう簡単に「孤独」という言葉を使うものもいないが、
生活してみれば意外に多い言葉のような。
まぁ、私が思うに「孤独」なんてのは簡単な言葉ではないと思っているが。
それでも使う人間は何らかの根拠があって使っているに違いない。
しかし私は思う。
「孤独」というものは確かに感じるものかもしれないが、
相当な状況にならなければ感じることは出来ないのではないか。
それも勝手な話だけれど、私は孤独は周りが感じることでもあるような、そんな考えがある。
例え周りが「孤独な人」だと憐れんだところで、当人が孤独を感じていなければ、実のところ其処には孤独などというものは存在しないのではないか?と。
逆に自分は孤独だと思っていたところで、周りがそうは思っていなければ、当人は本当に孤独なのか怪しい。
それが親しい人間が当人を孤独だと思っていないのならば、さらに怪しい。
稀に孤独は恰好良いという人間がいたり、そんな人間を見て本当の孤独を知らないからそんなことが言えるのだと不快な表情を見せるものなどがいるけれど、結局どちらも孤独を知らないに違いない。
敢えて言うなら孤独な人間が自分を孤独だと言えるのか疑問だ。
「孤独」
それは結局、第三者の心情であるような気がしてならない。
最初に断っておいて良かった良かった。
最後まで読んだ者があるならば、何馬鹿を言っているのだなどと思われそうだが、偏りのある頭ですので、ご了承いただければ幸いと。
人が孤独を感じるのに必要な要素は一体何なのだろうね?
第2幕 私という自己
2005年3月21日 漫談自分を理解するというのは本当に難しい。
自分は自分をそれなりに理解しているような気がするが、
それが確かかと言われればそうとも言えないような気になるのが事実。
私は他人の目から見れば、明るく強く見えるという。
それは私だろうか?
私はそれが私だとは到底思えないのだが、他人の目から見えるものが正しいとすれば、私はそう言った人間なのだろう。
しかし、私は決して明るくもなければ強くもなく、明るくしていようと振舞うことに違和感がないだけなのではないだろうかとも思う。
しかし、真に明るい人間でなければ明るさに多少なりとも違和感はあるものではないのかと考えてしまう。
私は決して強くはない。
強ければ良いと思うが、それはあくまで理想であり事実ではない。
他人は私の過去の話を聞き強いという。
それでも、私は逃げていただけなのだと知っている。
それが恥ずかしいことだったかは分からない。
いまでも、恥ずかしいと思うことはない。
それでも、他人との接触を酷く拒もうとしていたことは事実で、
他人との接触よりも孤独を近くに置いていただけのこと。
他人は孤独は強いというけれど、孤独な状況に置かれて耐えることと、孤独を作り上げそこに住み付くのでは孤独の重さも違うような気がする。
前者は確かに強いかもしれないが、私は後者の人間である。
全ての物を拒みたかっただけで、孤独に置かれたわけではなく、煩わしい気持ちから孤独に置いた。
その為か未だに人が嫌いだ。
そんな私が明るい人間なわけがない。
もし、そう見えるのであれば私は私さえも欺いているのだろうか?
何を考えていたのか分からない。
頭が真っ白になる瞬間は度々あるから。
さて、今日で世間様の3連休は終わりだったかな。
明日からの電車が億劫だ。
今、明らかなのはそんな事実だけ。
そんな私のことだけ。
それすらも本当かどうか怪しいのかもしれないけれど。
自分は自分をそれなりに理解しているような気がするが、
それが確かかと言われればそうとも言えないような気になるのが事実。
私は他人の目から見れば、明るく強く見えるという。
それは私だろうか?
私はそれが私だとは到底思えないのだが、他人の目から見えるものが正しいとすれば、私はそう言った人間なのだろう。
しかし、私は決して明るくもなければ強くもなく、明るくしていようと振舞うことに違和感がないだけなのではないだろうかとも思う。
しかし、真に明るい人間でなければ明るさに多少なりとも違和感はあるものではないのかと考えてしまう。
私は決して強くはない。
強ければ良いと思うが、それはあくまで理想であり事実ではない。
他人は私の過去の話を聞き強いという。
それでも、私は逃げていただけなのだと知っている。
それが恥ずかしいことだったかは分からない。
いまでも、恥ずかしいと思うことはない。
それでも、他人との接触を酷く拒もうとしていたことは事実で、
他人との接触よりも孤独を近くに置いていただけのこと。
他人は孤独は強いというけれど、孤独な状況に置かれて耐えることと、孤独を作り上げそこに住み付くのでは孤独の重さも違うような気がする。
前者は確かに強いかもしれないが、私は後者の人間である。
全ての物を拒みたかっただけで、孤独に置かれたわけではなく、煩わしい気持ちから孤独に置いた。
その為か未だに人が嫌いだ。
そんな私が明るい人間なわけがない。
もし、そう見えるのであれば私は私さえも欺いているのだろうか?
何を考えていたのか分からない。
頭が真っ白になる瞬間は度々あるから。
さて、今日で世間様の3連休は終わりだったかな。
明日からの電車が億劫だ。
今、明らかなのはそんな事実だけ。
そんな私のことだけ。
それすらも本当かどうか怪しいのかもしれないけれど。
第1幕 ピーターパン症候群
2004年11月26日 漫談「大人なんかになりたくない」
そんな言葉が口癖な今日この頃。
しかし、ふと冷静に考えてみる。
『大人なんかになりたくない』とはどんな意味なのであろうか?
そもそも、ここでいう大人とはなんぞや?
大人とは、法的にいえば成人―二十歳をもって成人とす―ということになり、成人になったものには多くの権利と義務が課せられることになる。そして、それをもって大人とするのである。
一方、思想を用いて考えるのならば大人とは自分を知ることである。
自分は何者なのか、自分の存在の意味とは、そういった一連のものを明確に知ることが出来るものを大人というらしい。
しかし、一般的な定義としての大人とはどういうものかといえば、
「社会に属し、自立している者」
のことではないだろうか。
では、そこでいう社会に属し自立しているとはどういうことだろうか。
まず、「社会に属す」ということは、個人が何らかの社会的役割を果たしているということであろう。
例えば、社会を形成する一部である会社に属し仕事を持つこと、または社会を形成する為に必要な財政面の義務である納税をするとか、そういった社会形成の一部を担っていることが社会に属しているということではないかと考える。
次に、「自立する」というのはどうだろう。自立とは個になることであろう。社会を構成する最小単位である家族の一部であった者が、個で社会を構成する最小単位と同等の単位を得ることではないかと考える。
しかし、ここで一つ気になることは大人に対する子供というもののことである。大人というものの一般定義からいえば、子供とは「社会に属さず自立していないもの」ということになるのではないだろうか?
しかし、社会を構成する最小単位は先に述べたように家族である。その構成員である子供は当然社会の一部といえるのではないだろうか?
では、自立についてはどうだろうか。未成年者であっても仕事をし家族と離れ一人暮らしをしている者は自立しているといえるのではないだろうか?だとすれば、その者は大人ではないのだろうか。未成年者であるから当然納税の義務はない。しかし、同じ生活をしている者が成年者となれば、たちまち大人ではないとなる。それは成年者であるがゆえの義務を果たしていないということが理由となる。
ではここで、そういった義務や権利を排除して考えたら、大人と子供の違いとは何なのだろうか?
すべての人間は年齢に関係なく何らかの形で社会に属している。
ある程度の年齢に達すれば誰もが自立することも可能だろう。
だとすれば、自立した時点で、それら全てのものは大人だろうか?定義からいえばそういうことになる。
しかし、やはりそれでは何かが違うだろう。
社会を構成する為にはやはり規律が必要になる。社会を保持する為にも必要なものは多い。となると、権利や義務を排除して考えたものは現実社会では大人とは言えなくなる。
ではやはり、大人とは「社会に属し自立したもの」で、子供とは「社会に属さず、自立していないもの」なのだろうか。
しかし、私はそうは思わない。
人は生きていく中で多くの危機に直面する。その大小に関係なく、危機に直面することで人は多くの知識や知恵を身につける。それらを身につける中で失うものもあると思う。しかし、そこで失うものは必ずしも要らないものとは限らない。大切なものであっても、必要とあらば捨てなければいけないこともある。そうすることで人はより大きな集団に属して行けるようになるのである。
失われるものは、自立も出来なかった頃の感動や、集団に属することにより発見された自分の邪魔な自己であったり、それは様々である。
しかし、そういったものが邪魔になるのは集団というものに属する中で調和を乱すものと考えられるからだ。それ故、人は属する集団が大きくなるにつれ、自己を変化させ子供だった頃の自分を捨てていく。
つまり、子供の頃の自己を捨てたり変化させたりすることで、より大きな社会という集団に属していくことが、大人になるということではないのだろうか。
となると、未だに子供の頃の自分を後生大事に抱えている私は子供ということになる。
しかし私は、これからもその自分を手放すことは出来ない。
となるとやはり私は『大人なんかになりたくない』のだ。
続く?
そんな言葉が口癖な今日この頃。
しかし、ふと冷静に考えてみる。
『大人なんかになりたくない』とはどんな意味なのであろうか?
そもそも、ここでいう大人とはなんぞや?
大人とは、法的にいえば成人―二十歳をもって成人とす―ということになり、成人になったものには多くの権利と義務が課せられることになる。そして、それをもって大人とするのである。
一方、思想を用いて考えるのならば大人とは自分を知ることである。
自分は何者なのか、自分の存在の意味とは、そういった一連のものを明確に知ることが出来るものを大人というらしい。
しかし、一般的な定義としての大人とはどういうものかといえば、
「社会に属し、自立している者」
のことではないだろうか。
では、そこでいう社会に属し自立しているとはどういうことだろうか。
まず、「社会に属す」ということは、個人が何らかの社会的役割を果たしているということであろう。
例えば、社会を形成する一部である会社に属し仕事を持つこと、または社会を形成する為に必要な財政面の義務である納税をするとか、そういった社会形成の一部を担っていることが社会に属しているということではないかと考える。
次に、「自立する」というのはどうだろう。自立とは個になることであろう。社会を構成する最小単位である家族の一部であった者が、個で社会を構成する最小単位と同等の単位を得ることではないかと考える。
しかし、ここで一つ気になることは大人に対する子供というもののことである。大人というものの一般定義からいえば、子供とは「社会に属さず自立していないもの」ということになるのではないだろうか?
しかし、社会を構成する最小単位は先に述べたように家族である。その構成員である子供は当然社会の一部といえるのではないだろうか?
では、自立についてはどうだろうか。未成年者であっても仕事をし家族と離れ一人暮らしをしている者は自立しているといえるのではないだろうか?だとすれば、その者は大人ではないのだろうか。未成年者であるから当然納税の義務はない。しかし、同じ生活をしている者が成年者となれば、たちまち大人ではないとなる。それは成年者であるがゆえの義務を果たしていないということが理由となる。
ではここで、そういった義務や権利を排除して考えたら、大人と子供の違いとは何なのだろうか?
すべての人間は年齢に関係なく何らかの形で社会に属している。
ある程度の年齢に達すれば誰もが自立することも可能だろう。
だとすれば、自立した時点で、それら全てのものは大人だろうか?定義からいえばそういうことになる。
しかし、やはりそれでは何かが違うだろう。
社会を構成する為にはやはり規律が必要になる。社会を保持する為にも必要なものは多い。となると、権利や義務を排除して考えたものは現実社会では大人とは言えなくなる。
ではやはり、大人とは「社会に属し自立したもの」で、子供とは「社会に属さず、自立していないもの」なのだろうか。
しかし、私はそうは思わない。
人は生きていく中で多くの危機に直面する。その大小に関係なく、危機に直面することで人は多くの知識や知恵を身につける。それらを身につける中で失うものもあると思う。しかし、そこで失うものは必ずしも要らないものとは限らない。大切なものであっても、必要とあらば捨てなければいけないこともある。そうすることで人はより大きな集団に属して行けるようになるのである。
失われるものは、自立も出来なかった頃の感動や、集団に属することにより発見された自分の邪魔な自己であったり、それは様々である。
しかし、そういったものが邪魔になるのは集団というものに属する中で調和を乱すものと考えられるからだ。それ故、人は属する集団が大きくなるにつれ、自己を変化させ子供だった頃の自分を捨てていく。
つまり、子供の頃の自己を捨てたり変化させたりすることで、より大きな社会という集団に属していくことが、大人になるということではないのだろうか。
となると、未だに子供の頃の自分を後生大事に抱えている私は子供ということになる。
しかし私は、これからもその自分を手放すことは出来ない。
となるとやはり私は『大人なんかになりたくない』のだ。
続く?