「大人なんかになりたくない」

そんな言葉が口癖な今日この頃。
しかし、ふと冷静に考えてみる。
『大人なんかになりたくない』とはどんな意味なのであろうか?
そもそも、ここでいう大人とはなんぞや?

大人とは、法的にいえば成人―二十歳をもって成人とす―ということになり、成人になったものには多くの権利と義務が課せられることになる。そして、それをもって大人とするのである。
一方、思想を用いて考えるのならば大人とは自分を知ることである。
自分は何者なのか、自分の存在の意味とは、そういった一連のものを明確に知ることが出来るものを大人というらしい。
しかし、一般的な定義としての大人とはどういうものかといえば、
「社会に属し、自立している者」
のことではないだろうか。

では、そこでいう社会に属し自立しているとはどういうことだろうか。
まず、「社会に属す」ということは、個人が何らかの社会的役割を果たしているということであろう。
例えば、社会を形成する一部である会社に属し仕事を持つこと、または社会を形成する為に必要な財政面の義務である納税をするとか、そういった社会形成の一部を担っていることが社会に属しているということではないかと考える。
次に、「自立する」というのはどうだろう。自立とは個になることであろう。社会を構成する最小単位である家族の一部であった者が、個で社会を構成する最小単位と同等の単位を得ることではないかと考える。

しかし、ここで一つ気になることは大人に対する子供というもののことである。大人というものの一般定義からいえば、子供とは「社会に属さず自立していないもの」ということになるのではないだろうか?
しかし、社会を構成する最小単位は先に述べたように家族である。その構成員である子供は当然社会の一部といえるのではないだろうか?
では、自立についてはどうだろうか。未成年者であっても仕事をし家族と離れ一人暮らしをしている者は自立しているといえるのではないだろうか?だとすれば、その者は大人ではないのだろうか。未成年者であるから当然納税の義務はない。しかし、同じ生活をしている者が成年者となれば、たちまち大人ではないとなる。それは成年者であるがゆえの義務を果たしていないということが理由となる。
ではここで、そういった義務や権利を排除して考えたら、大人と子供の違いとは何なのだろうか?
すべての人間は年齢に関係なく何らかの形で社会に属している。
ある程度の年齢に達すれば誰もが自立することも可能だろう。
だとすれば、自立した時点で、それら全てのものは大人だろうか?定義からいえばそういうことになる。
しかし、やはりそれでは何かが違うだろう。
社会を構成する為にはやはり規律が必要になる。社会を保持する為にも必要なものは多い。となると、権利や義務を排除して考えたものは現実社会では大人とは言えなくなる。
ではやはり、大人とは「社会に属し自立したもの」で、子供とは「社会に属さず、自立していないもの」なのだろうか。

しかし、私はそうは思わない。
人は生きていく中で多くの危機に直面する。その大小に関係なく、危機に直面することで人は多くの知識や知恵を身につける。それらを身につける中で失うものもあると思う。しかし、そこで失うものは必ずしも要らないものとは限らない。大切なものであっても、必要とあらば捨てなければいけないこともある。そうすることで人はより大きな集団に属して行けるようになるのである。
失われるものは、自立も出来なかった頃の感動や、集団に属することにより発見された自分の邪魔な自己であったり、それは様々である。
しかし、そういったものが邪魔になるのは集団というものに属する中で調和を乱すものと考えられるからだ。それ故、人は属する集団が大きくなるにつれ、自己を変化させ子供だった頃の自分を捨てていく。
つまり、子供の頃の自己を捨てたり変化させたりすることで、より大きな社会という集団に属していくことが、大人になるということではないのだろうか。

となると、未だに子供の頃の自分を後生大事に抱えている私は子供ということになる。
しかし私は、これからもその自分を手放すことは出来ない。

となるとやはり私は『大人なんかになりたくない』のだ。

続く?

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