人と会話をすること。喋喋とまではいかなくとも。
それは他人と接する限り、避けて通るわけにはいかないもの。
コミュニケーション。
そもそも、会話と言う形でコミュニケーションをするのは、
人間が言語と言うものを手に入れたから。
そんなものが出来たのは必要であったから。
集団でなければ生活することが出来なかった自然の中の弱者が見出した手段。
同種にしか聞き取ることの出来ない言語。危険から身を守るために。
牙を捨て、素早さを捨て、武器を手にし、知能を高めた。
そんな人間は言語も様々に変形させ、発展させた。
そんな言語を使って人は人とコミュニケーションをするようになり、楽しいことや、辛いことなどを共感できるようになった。
集団で生活するためには必要だった言語。
私も人間である以上、集団で生活していかなければいけないわけだが、
集団が苦手だ。そしてコミュニケーションも苦手だ。
危険を知らせる音(言語)は私の耳に届くとき、時としてそれが危険なものであったりするからだ。
音を発している者はそんなつもりはないのだろうけれど、私の耳は、その音を脳に運ぶ過程で、若しくは脳に届いた時点で別の音に変わるといっても過言ではないほどに別の音になる。
様々に変形した言語は、単純な意味から深い意味に変わり、
多くの意味を持つようになった。
そんな言葉を私の脳は正しく理解できない。
当然、私の心情も正しい言語に変換することが出来ない。
そんなわけで、私は他人とのコミュニケーションが苦手だ。
必要最低限の会話をすることは誰とでも出来る。
しかし、それ以上となると誰とでも出来るわけではない。
偉そうに自分の中で話せる人間と話せない人間を決め、
それを決定付けるものは、私の言葉を理解できるかできないかというものによる。
理解できると思っても、理解できない場合が多い。
そうなると私はその者との会話を極力避ける。
理解されない、理解できない会話を無駄に感じる。
それはもうコミュニケーションではないと判断する。偉そうに。
世の中の大人と言われる年齢に達するまで私は平然とそれをしてきたし、
それで何の問題もなかった。実際は問題がないように感じていたようだけれど。
それでも、成長するにつれてそれだけではどうにもならないと言うことに気づき始めた。
自分を囲む社会の枠が大きくなれば大きくなるほど、私の考えは通用しなくなる。
それは私を理解する人間と理解しない人間の比率の変化だ。
そんなわけで、私は私のコミュニケーションと言うものを根本から見直さなければならなくなった。
かと言って、私の基本的な考えが変わるはずもなく、
結果として、人を避けるように、必要最低限のこと以外は口を噤むということになっている。
しかし、いつまでもそれでどうにかなるものではないことなどは承知しているが、どうにもならないのである。
簡単に言えば、私は言葉が恐くて仕方がないからだ。
人に危険を知らせるための言葉は、いつしか私が他人を危険にさらし、危険をもたらすものだと思うようになったからだ。
そしてそれは私の中で真実であり、その真実が変わることがない限り私は言葉を恐れ、他人から発せられるの時も、他人へ発する時も、常に恐怖心と共にいなければならない。
それでも、最近他人と会話することが増えてきたのは必要に迫られていたからだろうか?
違うことは気づいている。
私は麻痺してきている。自分の納得のいかぬままに時は流れ、私は逆らえずにその流れに流されている。
その流れの中で私は他人とのコミュニケーションを拒否することが出来ず、流れのままにコミュニケーションをする。
危険にさらされることも危険にすることも、その恐怖心も、薄い膜を通しているかのように他人事で。
麻痺した私は自分の意思と関係なく喋喋として。
その歪は1人になったときに訪れる。
実際に1人でないときも、私は1人になる。
その瞬間、私はコミュニケーションを取れない人間へ戻る。
必要なことも必要でないことなのかもわからなくなった私はただ何も感じられなくなるばかりで、楽しかったことも悲しかったことも何もわからなくなり、口を噤む。
其処に人がいればおかしいと思うことだろう。
だけど、それが真実で、私はおかしな人間だろう。
私はもうどれほど長いこと自分の伝えたいことを伝えないコミュニケーションをしていることでしょう。
でも、それが世の中のいうコミュニケーションなのだと思っているのです。
だから私のコミュニケーション能力は測定できないのでしょう。
それは私が誰とも会話したくなく、誰もと会話したいからなのです。
私は誰と会話していてもその言葉を処理する自分と会話しているのです。
そうすることで、危険にさらしているのは他人ではなく自分だと納得させ、他人に危険をもたらさないようにしているのです。
結局のところ、私にとってコミュニケーションは情報収集でしかないのでしょう。
自分の知りえないことを知るための手段であり、そういった意味ではもともと言葉が発生した理由とたいして違いはないのです。
この考えは現在のもので、また何時変わるか知れません。
それは他人と接する限り、避けて通るわけにはいかないもの。
コミュニケーション。
そもそも、会話と言う形でコミュニケーションをするのは、
人間が言語と言うものを手に入れたから。
そんなものが出来たのは必要であったから。
集団でなければ生活することが出来なかった自然の中の弱者が見出した手段。
同種にしか聞き取ることの出来ない言語。危険から身を守るために。
牙を捨て、素早さを捨て、武器を手にし、知能を高めた。
そんな人間は言語も様々に変形させ、発展させた。
そんな言語を使って人は人とコミュニケーションをするようになり、楽しいことや、辛いことなどを共感できるようになった。
集団で生活するためには必要だった言語。
私も人間である以上、集団で生活していかなければいけないわけだが、
集団が苦手だ。そしてコミュニケーションも苦手だ。
危険を知らせる音(言語)は私の耳に届くとき、時としてそれが危険なものであったりするからだ。
音を発している者はそんなつもりはないのだろうけれど、私の耳は、その音を脳に運ぶ過程で、若しくは脳に届いた時点で別の音に変わるといっても過言ではないほどに別の音になる。
様々に変形した言語は、単純な意味から深い意味に変わり、
多くの意味を持つようになった。
そんな言葉を私の脳は正しく理解できない。
当然、私の心情も正しい言語に変換することが出来ない。
そんなわけで、私は他人とのコミュニケーションが苦手だ。
必要最低限の会話をすることは誰とでも出来る。
しかし、それ以上となると誰とでも出来るわけではない。
偉そうに自分の中で話せる人間と話せない人間を決め、
それを決定付けるものは、私の言葉を理解できるかできないかというものによる。
理解できると思っても、理解できない場合が多い。
そうなると私はその者との会話を極力避ける。
理解されない、理解できない会話を無駄に感じる。
それはもうコミュニケーションではないと判断する。偉そうに。
世の中の大人と言われる年齢に達するまで私は平然とそれをしてきたし、
それで何の問題もなかった。実際は問題がないように感じていたようだけれど。
それでも、成長するにつれてそれだけではどうにもならないと言うことに気づき始めた。
自分を囲む社会の枠が大きくなれば大きくなるほど、私の考えは通用しなくなる。
それは私を理解する人間と理解しない人間の比率の変化だ。
そんなわけで、私は私のコミュニケーションと言うものを根本から見直さなければならなくなった。
かと言って、私の基本的な考えが変わるはずもなく、
結果として、人を避けるように、必要最低限のこと以外は口を噤むということになっている。
しかし、いつまでもそれでどうにかなるものではないことなどは承知しているが、どうにもならないのである。
簡単に言えば、私は言葉が恐くて仕方がないからだ。
人に危険を知らせるための言葉は、いつしか私が他人を危険にさらし、危険をもたらすものだと思うようになったからだ。
そしてそれは私の中で真実であり、その真実が変わることがない限り私は言葉を恐れ、他人から発せられるの時も、他人へ発する時も、常に恐怖心と共にいなければならない。
それでも、最近他人と会話することが増えてきたのは必要に迫られていたからだろうか?
違うことは気づいている。
私は麻痺してきている。自分の納得のいかぬままに時は流れ、私は逆らえずにその流れに流されている。
その流れの中で私は他人とのコミュニケーションを拒否することが出来ず、流れのままにコミュニケーションをする。
危険にさらされることも危険にすることも、その恐怖心も、薄い膜を通しているかのように他人事で。
麻痺した私は自分の意思と関係なく喋喋として。
その歪は1人になったときに訪れる。
実際に1人でないときも、私は1人になる。
その瞬間、私はコミュニケーションを取れない人間へ戻る。
必要なことも必要でないことなのかもわからなくなった私はただ何も感じられなくなるばかりで、楽しかったことも悲しかったことも何もわからなくなり、口を噤む。
其処に人がいればおかしいと思うことだろう。
だけど、それが真実で、私はおかしな人間だろう。
私はもうどれほど長いこと自分の伝えたいことを伝えないコミュニケーションをしていることでしょう。
でも、それが世の中のいうコミュニケーションなのだと思っているのです。
だから私のコミュニケーション能力は測定できないのでしょう。
それは私が誰とも会話したくなく、誰もと会話したいからなのです。
私は誰と会話していてもその言葉を処理する自分と会話しているのです。
そうすることで、危険にさらしているのは他人ではなく自分だと納得させ、他人に危険をもたらさないようにしているのです。
結局のところ、私にとってコミュニケーションは情報収集でしかないのでしょう。
自分の知りえないことを知るための手段であり、そういった意味ではもともと言葉が発生した理由とたいして違いはないのです。
この考えは現在のもので、また何時変わるか知れません。
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